貫和敏博*
*東北大学名誉教授
[Essays] A tale of two domains: "breathing movement" and "gas-exchange/lung science"
- A personal history and the significance of breathing in the respiratory medicine
No 11-1: Traditional Asian Soma and Breathing Method open up a Novel Paired Signaling Physiology: an Introduction
Toshihiro Nukiwa*
*Professor Emeritus, Tohoku University
呼吸臨床 2019年3巻9号 論文No.e00091
Jpn Open J Respir Med 2019 Vo3. No.9 Article No.e00091
DOI: 10.24557/kokyurinsho.3.e00091
掲載日:2019年9月6日
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1989年,順天堂大学助教授の立場で「西野流呼吸法」を習い始めた私は,molecular biologyの臨床応用が産声を上げたアカデミックな医学世界と,ブームである「気」の世界の2つの領域で生きていた。私は「気」というアジアの哲理世界が体系的に理解できず,それを補うべく,精読した本が何冊かある。
その1冊が湯浅泰雄の「気・修行・身体」[1]である。それから30年を経て,また70歳を過ぎて,今それを再読している。
この本の導入部は,1981年の湯浅泰雄,石川中の「からだとこころ」の対話である。石川中先生は東京大学医学部「心療内科」教授であった。
西洋医学とアジア医学は,なぜかくも並行したままで,相互の連携が取れないのか?
基本的なところに,西欧医学にはキリスト教思想を根底に持つ心身二元論が存在する。これをそのまま明治期に輸入した日本医学は,本来はアジア圏であって二元論的思想はないにもかかわらず,二元論的医学を求めるようになった。石川はいう「日本の近代医学では,医者にはからだしか預けないという考え方ですね。医者のほうもそれで結構と思っている。だから,からだのレベルだけで治療しちゃう。……医学教育なんかに宗教とか精神なんて問題を入れるのはタブーに近いです。あいつはおかしいいうことになる。」
残念ながら,対談から40年を経て21世紀になっても,これは変わっていない。本連載でも取り上げたmindfulnessなど,新しい動きは臨床にあるものの,まだ医学部「本陣」では無視されている。
この対談の最後では,21世紀の情報化,高齢化社会を見越しての議論となる。石川はいう「知的情報というのはあくまでも一つの側面であって,身体的なエネルギーを基盤とした情動とか活性というものを無視したらいけない。現代は,あまりにそういうものが抑えられていると思います。その点心身医学も『心からからだへ』というよりも『からだから心へ』というような形を取るべきだろうと思う。」と。
「身体から心へ」,具体的には何を指しているのだろうか?
本連載では,その流れの中枢となるのが「呼吸」運動である,として議論を展開している。身体にはたらきかけるには,「動き」を全身に伝播する「呼吸」以外に生理的に適切なものはほかにない。その実際をアジアの人々は知恵として知っていて,「呼吸」を重視していたわけである。こうした意味で「呼吸法」とは,健康人(身体的に制限されるような病気でない人々)にとっての「身体」を知覚する「修行」であり,それが健康な「心」維持への橋渡しになるのである。
さらに「呼吸」運動による全身的知覚感は個人にとどまらず,二個体間でも共有が可能である。第10回ではpaired physiologyという用語を初めて用いた(むしろpaired signaling physiologyとすべきかと考えるようになった。第11回ではこのsignalingを入れた用語で統一する)。第11回では,その言葉の背景としての東洋的身体と二個体間生理学を序論として議論したい。
まず「呼吸法」にはいかなる歴史があるのか?それはどう展開しているのか?
第11回では,前半で20世紀初頭の東洋研究の二大巨匠,リヒアルト・ウイルヘルムとアンリ・マスペロを取り上げ,西欧知性であるから可能であった道教思想・身体論の理解,ことに中国における呼吸論の歴史を振り返る。